引用・編集・オリジナリティ
tiga:
季刊・本とコンピュータ (第2期13(2004秋号))に掲載されている小熊英二の文章は「オリジナル」という言葉や引用について考える上で重要なものだと思ったのでメモ。今ならTumblrとの対比で考えると面白いかも。
ある作家と対談したときに述べたことだが、私は小説を書こうと思ったことがない。作家や詩人とは、世界に対して根本的な違和をつきつけるような、存在感のある言葉を自分で創れる人なのだと思う。私は自分ではそういう言葉は創れないので、過去の言葉の集積のなかから、現代に生きる人間にとって衝撃力のありそうな言葉を集めて編集することによって本をつくる。いわば、「言葉の高み」に上昇するにあたって、作家や詩人は自分自身にジャンプ力のある人だから自分で跳ねればよいのだが、私はジャンプ力がないので、石ころや木片を集めて足場にしているのである。
そのような引用に満ちた本を、どのような方法で執筆(ないし編集)するか。もっとも理想的な場合には、「ここであの引用を使い、あそこでこの引用を使おう」という青写真が頭のなかで完成していて、それに沿って引用を使いながら書きおろしていく。
しかし、こんなふうにうまくいく場合は、滅多にない。引用すべき言葉が多すぎて、それをすべて適切に配列した青写真をつくるだけの容量が、自分の頭脳にないのである。「あれも引用したい、これも引用したい、しかしどう並べたら……」という状態である。
ことにむずかしいのは、現代の読者の立場に立って編集しなければならないという点である。私自身は、過去の時代の言葉の集積が自分の頭脳に染みこむまで読んでいるので、「あの時代」の発想形態や言葉づかいがわかっている。しかし現代の読者にとっては、それはまったく未知の異文化である。つまり、私は過去の言葉をただ引用するだけでなく、予備知識ゼロの読者が適切に理解できるように、また適切に衝撃をうけながら飽きずに読めるように、もっとも効果的な配列を考えて引用しなければならないのだ。
こうして、引用すべき言葉を大量に頭のなかに抱えている状態は、あたかも過去の「世界」数個分が頭脳のなかで渦巻いているような感じである。その状態から、どのように過去の言葉を編集し、配列したら、現代人に読みやすくなるかを考える。
執筆の過程では、この段階がいちばん苦しい。ときどき私の著作に対して、「よくこんなに資料を集めましたね」と言ってくれる方があるが、集めるのは時間をかけて勤勉に働けば可能であると思う。集めた言葉の群れを編集して、現代人の読める形態に翻訳するほうが、数十倍の苦労に感じる。
その苦労をいくらかでも軽減してくれるのが、コンピュータである。先ほど述べた理想的なケース――頭のなかに青写真があらかじめできていて、それに沿って執筆すればよい状態――ではない場合には、とにかく引用すべき資料をコンピュータにひたすら打ち込んでいく、大量の打ち込みが終わったら、それをプリントアウトして、配列を考え直す。ずらりと並んだ引用すべき資料を前にして、「これを一番目に、これを三番目に、あいだにこういう説明を入れて……」などと考えるわけである。
そうやってつくった配列表をもとに、とにかく資料を引用しながら書いていく。しかし、これで完成形になるかというと、そういうことも滅多にない。たいがいの場合は、いくらかの地の文で資料をつなぎあわせただけのような、第一草稿ができあがる。この第一草稿をプリントアウトして、また配列や加筆を考え直し、コンピュータ上で再編集を行うのである。
こうして第二草稿ができあがったら、またプリントアウトして考え直し、コンピュータ上で再配列・加筆をくりかえす。こうして第三草稿が、一章分ずつできあがってゆく。それがたまったら、本全体の構想を考え直し、「第二章のこの部分を第九章に移動して、代わりに第五章のあの部分を第二章にくりこんで……」といった再編集作業を行なう。こうして第四草稿ができあがる。それから全体を読み直しブラッシュアップして第五草稿をつくり、必要な註をつけ、執筆内容に間違いがないか辞書や年表を片手に校正と確認の作業をして、完成原稿にしあげてゆくのである。
以上簡単に書いたが、実際にやってみると、ひどく手間のかかる作業である。平均して資料の収集に二年、執筆を開始して一年から二年はどうしてもかかる。
それに対し、いま書いているようなエッセイは、だいたいの構想を頭のなかにおいて、冒頭から書きおろしている。たいていの場合は、これが通常の「文章の執筆」というものだろう。しかしそうだとすると、コンピュータへの入力とプリントアウト、そして再配列と加筆をひたすらくりかえす私の著作の方法は、通常の「文章の執筆」ではないのかもしれない。それこそ木片や石ころをかき集め、ハサミとノリでつなぎあわせてモザイク彫刻をつくっているような作業である。
……
こういう執筆スタイルは、音楽で言えばサンプリングに近い。そのせいか、私には「著者」という感覚はやや希薄である。「著述」しているというより、「編集」をしているという感覚である。
また同時に、私の著作の主役は私ではなく、集めてきた言葉のほうであるという意識も強い。そもそも私は、著作で「自己表現」をしたいという意志はほとんどない。いささか口幅ったいが、人類の歴史的共有財産である言葉を、うまく配列してよい作品にまとめたいという気持ちのほうが先にたつ。そうした人類の共有財産の継承や整理に貢献できたという喜びと自負はあるが、「自分がこの本を書きました」といったセリフは、何かおこがましい気がしてあまり言いたくないのである。だいいち、「自己表現」が目的ならば、これほどに手間をかけなくても、もっと楽な方法があるのではないかとも思う。
こういう感覚でいるため、過去の文章や音源をサンプリングして「作品」をつくるということに対しては、私は必ずしも否定的な感情は抱かない。技術革新によって、そのような活動を行なう可能性が広がることも、基本的にはよいことだと思う。
しかし、それを「自己表現」とか「オリジナルな作品」だと称している場合には、正直なところ「つまらないことを言うなあ」という印象を持つ。引用やサンプリングを行なうことは、人類の共有財産という「巨人の肩」に乗って、より至高の位置に上る活動ではあるが、そこにおける「自己」の存在などはさしたるものではないと思うからだ。
こうした意見が著作権の法律関係とどう結びつくべきなのかはまた別の政治的判断が必要になると思うが、自分の著作活動における感覚はこのようなものである。(季刊・本とコンピュータ (第2期13(2004秋号)) p69-71)
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